けいよい日記

キングオブ暇な私の、心の琴線

サクラチル

昨日のことになりますが、千鳥ヶ淵の桜を見に行ってきました。

東京に住んで、5年目の春。
初、千鳥ヶ淵
遅。

まぁ想像以上に花見客が多く、花見というより人見、といった感はありましたが。

それでも、その人ごみが気にならないくらい、あそこの桜は素晴らしかったです。

さえぎる物がないせいか、桜が伸びたい方向に伸び放題。
その結果、素晴らしい形に成長しています。
花の勢いも凄まじいばかり。
木は結構なご高齢に見えましたが、きっとすこぶる健康なんでしょう。


桜は日本人にとって特別である、と、よく聞くし、言いもします。

開花する前からの、全国津々浦々における浮かれっぷり。
そして散った後の、あぁ今年も終わっちまったねぇ、という晴々とした寂しさ(by動物のお医者さん)。

他の国の人には、わからないんでしょうか。
きっと他の国にも、そんな花が、それぞれにあるんでしょうね。



「あんたは国を守るために死ねるかい?」

田原惣一郎さんが、確か福島瑞穂さんだったかに、朝生で質問しておられました。
アップアップになるのをわかってて、そんな。
かわいそうに。


でもまあ、自分はどうだろうと、ツラツラ考えましたよ。
3日ほど。

ど~うだろうな~と思っていた矢先、近所の桜が目に端に入りました。
そして、ぽろっと答えが落ちてきたように思います。

国って。
国って、日本の場合、米を食べ、富士山を愛で、そしてそして、桜に酔うこと、なんではないかと。
この土地で、私たちが、そういう生活をしていること、そのものが「国」なんではないかと。
あぁ、そうだ。
皇族さんたちが幸せに暮らしていてくれたら、それくらいの余裕が私たちにあれば、申し分ないかと。


だから、「国のために死ぬ」という表現は、そもそもおかしいような気がします。
国を守るためにしなきゃならないことは、生き延びることであって、死ぬことじゃない。

出来るだけたくさんの人が生き延びて、桜が咲いたら花見をする、花見をする、花見をする。

そうすれば、日本が無くなることはないわけで。



国と国家は違います。

国が本体なら、国家は「顔」もしくは「お面」。
本体にとって役に立たないものなら、取り替えればいいだけの話。

そんなものを守るのに、命を張ったり、人を殺したりなんて、ごめん被ります。
家族を守るのならともかく、結果的に守られているのは会ったこともないオッサンだったりするんです。
小泉さんとか、官僚とかね。

んん~。
騙されちゃいか~ん。


だから私は。

今日もやっぱり、花見をするぞー。
焼き鳥を食うぞー。
日本酒を飲むぞー。

下戸だけど。


生まれ変わったらザルになりたい、心底そう思います。

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