けいよい日記

キングオブ暇な私の、心の琴線

ウラバンナ

そもそもお盆というのは、ずっと昔から日本にあったわけだ。


そんな日に戦争が終わったというのも、なにか因縁めいたものを感じる。

日本の夏にどこか重さを感じるのは、湿気のせいばかりではないだろう。




私の出身地は、広島に近い。

 
そのせいもあるのか、原爆の話は小さい頃からとても身近だった。
母の実家には、母の姉だという若い女の人の遺影が掲げられていた。
広島で働いていたそうだ。


テレビから流れてくるような話が、親戚の会話の中から普通に聞こえてきていた。

それが普通だと思っていたのだが、どうもそうでもないらしい。


京都では、原爆が落ちた時間にサイレンが鳴ることはない。

東京では、原爆の話よりも東京大空襲の話をよく聞いた。

東京の大空襲については、私は、詳しい日にちなどは知らなかった。


今にして思えば至極当然のことなのだろうが、戦争の話というものにまで地域色があるということに気づき、ちょっと驚いた覚えがある。



その東京大空襲の話を、あるお爺さんがされていた。


防空壕は人がいっぱいで入れず、火に追われ追われて、学校のプールで凌いだという。

だが、そのプールも人がいっぱいで。
たくさんの人に踏まれ、水死していく人もいたのだとか。


そのお爺さんは、なんとか助かった。

だが、後日、妹が遺体となって見つかった。



そのプールの底で。



それまで気持ちを抑えながら話を進めていたお爺さんの顔が、途端に崩れた。


「妹を殺したのは、私かもしれない。」


そう言って、静かに泣いておられた。

この人の気持ちを慰める言葉など、どこにも存在しないだろうと、思った。

 
お爺さんの手を取って、そんなことはない、そんなことはないと一生言い続けたって、難しいだろう。
妹を亡くした日から、一瞬たりともその思いは消えることなかっただろう。



いや。

あったかもしれない。



このお爺さんにだって、日常というものがあったはず。

成長し、結婚し、子供を持ち、そして孫が生まれたり。

そんな62年が、あったのかもしれない。


もしかしたら、初孫を抱いたその一瞬だけは、妹のことを忘れたかもしれない。


だが、次の瞬間には思い出して、そのことを妹に詫びたり、自己嫌悪に陥ったり…していたのだろうか。







戦争の体験が、日常に沈む。
たまに水面が揺らめくと、底の方にそれは見える。
そして、その沈んでいる物は少しずつ溶け出し、水を濁らせ。
どんなに溶けても、無くなることはない。



ずっとずっと。

毎日毎日。


朝起きて、新聞を広げ、お茶を飲む。

そんな日常の底で、主を苦しめ続ける。

 


戦争は、怖い。




 

 
 
「焼き場に立つ少年」


この写真は、ジョー・オダネル氏というアメリカの写真家が原爆投下後の長崎で撮られたものだ。

 

少年はこの後、背負っていた自分の兄弟を荼毘に付す。
 

 

 


オダネル氏は、この少年を探しに来日されていた。

 
だが、その時は結局、見つからなかった。
遠くの景色に向かって、「坊や。何処にいるんだい。」と嘆かれていた姿が、とても印象に残っている。

 

先日、お亡くなりになったそうだ。
 
ご冥福をお祈りしたい。





戦争を知っている人が、どんどん亡くなっていく。
その前に、たくさん話をしてもらいたいと思っていたが。
そんな考えが、いかに軽率だったか、とも思う。


自ら語ってくれる人達に、感謝しなければならないだろう。




いろいろあるのだとは思う。

 

だが、戦争というものへの嫌悪感は、絶対に忘れてはならない。
ご利用まことにありがとうございます。